nanashinoblog

書評、日記、断片

2021/05/21

2021/05/21 深夜

 

 雨が降っている。窓を開けていると、雨粒がうちつけるさまざまな種類の音が耳に入ってくる。ゴミ用ビニール袋をうつ音。ベランダのコンクリートを打つ音。アパートのタイルをたたく音。車の屋根をうつ音。大量の雨が空気を引き裂いて落下してくる音。

 明日は警報級の雨らしい。例年の一月分の雨が一日で降るところもあるそうだ。とんでもない話だけれど、最近はよくその手のニュースを見るのであまり驚かなくなっている自分がいる。ああ、その規模の雨か。というふうに何も感興を起こさず過ぎてゆき、またやってくる新しい情報によって埋もれてゆく。

 人間の慣れる能力については、新型コロナウイルスの蔓延によって改めて証明され、自分にしても強く実感することになった。一年以上前の2月。ダイヤモンド・プリンセス号でたいへんな騒ぎになっていたあの頃は、数名の感染者の判明でパニックになっていたのに、今では一日の感染者が千人を切れば、まだマシだなどと思う。死者が出ることにももはや慣れてしまった。どこかで毎日自分が感染してもおかしくないウイルスによって、約百人の人が死んでいるにも関わらず、以前ほどの恐怖はなく、当然のように日々混雑する街なかをぶらぶらと歩いている。

 いま思えばまだまだ感染拡大の序章であった昨年の春頃にカミュの『ペスト』を読んだのだったが、あの頃は、この衛生環境が整備され、IT技術の基盤やガバメントがしっかりとある現代社会においては、この小説で描かれているほどのパンデミックは起き得ないだろうと思っていた。感染の大流行というのは、文明として成熟していない時代のできごとのように思っていた。しかし、結果は言うまでもない。数だけで言うと、正直なところ震災や台風などは比にならないほどの死者が出ている。そしてそれが今も続いていて、にもかかわらず、人々はそれがまるで存在しないかのように、あるいは自分たちには脅威を及ぼさないものであるかのように日常を送っている。withコロナというとなんとなく耳触りは良いが、今の状況というのは、ある意味では戦争状態のようなものではないだろうか、とさえ思う。ウイルスとの戦争状態。ふつう紛争地域では人びとはこんな気楽さを持てないのではないだろうか。自分の生活と死が隣り合わせになっている状況では、今の日本のようなどこかふつうの日常のような能天気さはあり得ないのではないだろうか。黙って深刻な顔をしていればそれで良いということではないけれど、それにしても、このマクロな深刻さとミクロな気楽さのギャップというのを、あらためて眺めてみるとびっくりする。