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書評、日記、断片

2021/07/15

「『サンセット・パーク』を読んで」2021/07/15

 

ポール・オースター『サンセット・パークス』を先程読み終えた。サンセット・パークという地区にある一軒の空き家に、四人の住む場所のない若者が不法居住をするという物語。他のオースター作品と同様に偶然が引き金となってストーリーは進展する。さまざまな理由によってぐうぜん同じ家に集まった四人の話が、それぞれ別の視点から三人称全知で語られるが、そのなかでも主人公のマイルズ・ヘラーという人物はいかにもオースター小説的なキャラクターだ。高学歴のインテリで、ハンサムで、なぜか人を惹きつけずにはいられない魅力的な眼を持っていて、洞察力があり、孤独で、その孤独を癒やしてくれるオンナノコ(ピラールという女子高生)が身近にいる。そしてその相手のオンナノコも主人公の女性版という具合で、いかにも小説のヒロインという完全無欠な人物だ。二人は例によって文学によって繋がりをもち、愛し合うようになるが、ピラールの姉によって邪魔されて、およそ半年のあいだ離れ離れになってしまう。このピラールの姉もステレオタイプの悪人という具合であまり気に入らなかった。彼女はなぜか二人の関係を妨害するのだが、その理由もあまりはっきりとしない。後に分かるのかとも思ったが、そういうこともなく、けっきょく最後までよくわからないままだった。

ポール・オースターの小説は久しぶりに読んだが、こんなにつまらなかっただろうかと驚いた。何かの連載だったのだろうか、いくぶん書き急いでいるようにおもえるところもあって、そのぶん人物描写や設定が粗雑で無理があるようにも感じられた。おそらく『4321』を除いてはこれで全てのオースターの小説を読んだことになると思うが、個人的には、この『サンセット・パーク』はオースター作品のなかでももっとも不出来なものだったのではないかと感じた。とはいえ、訳者あとがきによると、オースターはこの小説を、他の過去作とは違って、執筆当時のアメリカの息の詰まる雰囲気をうつしとることを意図して書いたらしく、そうすると、小説内では比較的長い時間を扱うことを得意とするオースターにはいくらか書きづらさもあったのだろう、と好意的に捉えることもできるかもしれない。いずれにせよ、オースターはこんなふうに長めの微妙な中編小説(『写字室の旅』『闇の中の男』)を書いたかと思うと、今度は目の醒めるような好作品(『リヴァイアサン』『インヴィジブル』)を世に出したりする。波のある作家ということなのかもしれない。

 

 

 

 

2021/07/14

「消えるめも」2021/07/14

 

詩か小説かなにかに使えるような気がして、フレーズが思いついたときにはこまめにメモを取るようにしているのだけれど、時間が経つにつれて、だんだんとこれはたぶん一生使わないのではないかと思えてくることがある。例えばこんなメモがある。

 

バルザックの杖には「私はあらゆる困難を打ち砕く」と書いてあり、それに対してカフカは「私の杖には「あらゆる困難が私を打ち砕く」と書いてある」と書いた。私はそもそも杖を家に忘れてしまうだろう。

  

二人の悲劇も三人目がいれば喜劇になりうる。

 

ポールヴァレリーは文章とは魂の能力だと書いていた。私はその文章を読まなかったことにした。

 

私は立ち上がって部屋の衣装棚の観音開きを開く。するとそこには虚無がある。そして次にキャビネットを開ける。そこにも虚無がある。カトラリーの引き出しを開けるとそこにもまた虚無。私は両手で救うような形の手を作る。とそこに虚無が載っている。虚無は、虚無を感じている私の虚無感さえその虚無によって包み込む。

 

小説にも詩にもなってゆかないメモはどうすれば良いのだろうとおもう。そもそもどうにかならなければいけないというような考え方自体がけち臭いという感じもするけれど、メモばかりがただ積み上がっていっこうに実作に繋がってゆかないとせめてメモがメモのまま何かの価値を持っていてほしいなどとおもう。

作家の死後、生前の日記が編集され出版されるということがよくあるが、あのようなことは、本人が露出を望んでいなかった場合は不憫だと思うが、たいていは羨ましいことだと思う。誰かに読まれることを意図しない日記であるがため、より赤裸々に、自分の思考や想念が、ときには乱雑なまでに書き殴られたような文章。『二十歳の原点』などはその顕著な例だと思う。私たちは日々のあわいのなかで様々なアイデアや思念が頭のなかで渦巻き、その暴走をとどめようとするかのように、あるいはよりいっそうその勢いを高めようとするかのようにノートに文章として必死に書きつける。それはたとえ時間が過ぎたあとに見直せばいっときの高揚が書かせた稚拙なものだとわかったとしても、その熱は本物のはずだ。だからその熱にくらいはいくばくかの価値があると思いたいと考えたのだけれど、これはしかし、いかにもアマチュアの考え方だ。寝よう。

 

 

2021/07/11

靉光の眼」2021/07/11

 

録画していた日曜美術館で、靉光あいみつ、と読む)という画家が特集されていて、その人生と激烈な絵にうたれた。

番組内では時期にわけて靉光の幾つかの絵を紹介していたが、そのなかでもとりわけ「眼のある風景」という作品に惹かれた。倒した木の幹を連想させる渦巻く褐色の混沌の真ん中にある一つの緑色の眼球を持つ眼。それに見詰められて、テレビ画面越しに自分の中のなにかをその眼に見透かされたような気がした。一度みただけで記憶から離れない。凄い絵だと思った。

それに加えて、靉光の人生を振り返るなかで、妻が夫についた記した文章が印象的だった。日中なのにカーテンで真っ暗に閉ざした部屋の隅で、靉光はひとりうなだれていて、妻がどうしたのかと訊ねると「絵がかけない」と言って涙を流したという。それが妻が唯一見た彼の涙だったそうだ。

詩や小説といったものを書きたいと考えているものとして、自分が取り組む創作に対する己の身の投げ方というものを考えさせられたような気がした。靉光の、激烈なまでの絵画への執着は、創作に携わる人間のありかたを示しているような気がする。何も失わずに、快適なまま、創作をはじめて終えられる。そんなことはきっとなくて、自分のなかの何かを創作のなかで破壊されてしまうかもしれない、というような覚悟のもとで為された創作こそ真にすばらしい作品を産むのだろうか。現実の靉光の心うちは番組だけではもちろん分からないけれど、そんなふうに感じさせられた。

2021/05/21

2021/05/21 深夜

 

 雨が降っている。窓を開けていると、雨粒がうちつけるさまざまな種類の音が耳に入ってくる。ゴミ用ビニール袋をうつ音。ベランダのコンクリートを打つ音。アパートのタイルをたたく音。車の屋根をうつ音。大量の雨が空気を引き裂いて落下してくる音。

 明日は警報級の雨らしい。例年の一月分の雨が一日で降るところもあるそうだ。とんでもない話だけれど、最近はよくその手のニュースを見るのであまり驚かなくなっている自分がいる。ああ、その規模の雨か。というふうに何も感興を起こさず過ぎてゆき、またやってくる新しい情報によって埋もれてゆく。

 人間の慣れる能力については、新型コロナウイルスの蔓延によって改めて証明され、自分にしても強く実感することになった。一年以上前の2月。ダイヤモンド・プリンセス号でたいへんな騒ぎになっていたあの頃は、数名の感染者の判明でパニックになっていたのに、今では一日の感染者が千人を切れば、まだマシだなどと思う。死者が出ることにももはや慣れてしまった。どこかで毎日自分が感染してもおかしくないウイルスによって、約百人の人が死んでいるにも関わらず、以前ほどの恐怖はなく、当然のように日々混雑する街なかをぶらぶらと歩いている。

 いま思えばまだまだ感染拡大の序章であった昨年の春頃にカミュの『ペスト』を読んだのだったが、あの頃は、この衛生環境が整備され、IT技術の基盤やガバメントがしっかりとある現代社会においては、この小説で描かれているほどのパンデミックは起き得ないだろうと思っていた。感染の大流行というのは、文明として成熟していない時代のできごとのように思っていた。しかし、結果は言うまでもない。数だけで言うと、正直なところ震災や台風などは比にならないほどの死者が出ている。そしてそれが今も続いていて、にもかかわらず、人々はそれがまるで存在しないかのように、あるいは自分たちには脅威を及ぼさないものであるかのように日常を送っている。withコロナというとなんとなく耳触りは良いが、今の状況というのは、ある意味では戦争状態のようなものではないだろうか、とさえ思う。ウイルスとの戦争状態。ふつう紛争地域では人びとはこんな気楽さを持てないのではないだろうか。自分の生活と死が隣り合わせになっている状況では、今の日本のようなどこかふつうの日常のような能天気さはあり得ないのではないだろうか。黙って深刻な顔をしていればそれで良いということではないけれど、それにしても、このマクロな深刻さとミクロな気楽さのギャップというのを、あらためて眺めてみるとびっくりする。