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書評、日記、断片

2021/07/14

「消えるめも」2021/07/14

 

詩か小説かなにかに使えるような気がして、フレーズが思いついたときにはこまめにメモを取るようにしているのだけれど、時間が経つにつれて、だんだんとこれはたぶん一生使わないのではないかと思えてくることがある。例えばこんなメモがある。

 

バルザックの杖には「私はあらゆる困難を打ち砕く」と書いてあり、それに対してカフカは「私の杖には「あらゆる困難が私を打ち砕く」と書いてある」と書いた。私はそもそも杖を家に忘れてしまうだろう。

  

二人の悲劇も三人目がいれば喜劇になりうる。

 

ポールヴァレリーは文章とは魂の能力だと書いていた。私はその文章を読まなかったことにした。

 

私は立ち上がって部屋の衣装棚の観音開きを開く。するとそこには虚無がある。そして次にキャビネットを開ける。そこにも虚無がある。カトラリーの引き出しを開けるとそこにもまた虚無。私は両手で救うような形の手を作る。とそこに虚無が載っている。虚無は、虚無を感じている私の虚無感さえその虚無によって包み込む。

 

小説にも詩にもなってゆかないメモはどうすれば良いのだろうとおもう。そもそもどうにかならなければいけないというような考え方自体がけち臭いという感じもするけれど、メモばかりがただ積み上がっていっこうに実作に繋がってゆかないとせめてメモがメモのまま何かの価値を持っていてほしいなどとおもう。

作家の死後、生前の日記が編集され出版されるということがよくあるが、あのようなことは、本人が露出を望んでいなかった場合は不憫だと思うが、たいていは羨ましいことだと思う。誰かに読まれることを意図しない日記であるがため、より赤裸々に、自分の思考や想念が、ときには乱雑なまでに書き殴られたような文章。『二十歳の原点』などはその顕著な例だと思う。私たちは日々のあわいのなかで様々なアイデアや思念が頭のなかで渦巻き、その暴走をとどめようとするかのように、あるいはよりいっそうその勢いを高めようとするかのようにノートに文章として必死に書きつける。それはたとえ時間が過ぎたあとに見直せばいっときの高揚が書かせた稚拙なものだとわかったとしても、その熱は本物のはずだ。だからその熱にくらいはいくばくかの価値があると思いたいと考えたのだけれど、これはしかし、いかにもアマチュアの考え方だ。寝よう。